2011年6月24日金曜日

お釈迦様の死因

以下は、インド旅行で泊まったあまり上等でないホテルのレストランの朝食での話である。

「お釈迦様の死因って、ご存知ですか?」
「さあ、でも確か80歳で死んだんだから、老衰じゃないの?」
「いいえ、実は食中毒だったんですよ」

仏陀の死は、当時の仏陀の信徒にとって、また後代の仏教徒にとっても忘れる事のできない大きな事件であり、入滅に至る最後の1年の言動は他に比較して詳しく経典『大パリニッパーナ経』(大般涅槃経) に伝えられている。
当時マガダ国を中心として布教を行っていた仏陀は、マガダ国の都ラージャガハから終焉の地クシナーラーに至る最後の長い布教の旅に出る。その途中、マッラ国のパーヴァーで鍛冶工のチュンダの食事の供養を受け、食中毒となった。

このように、わたくしは聞いた。
ー鍛冶工であるチェンダのささげた食物を食して、
しっかりと気をつけている人は、ついに死に至る激しい病いに罹られた。
(きのこ)を食べられたので、師に激しい病いが起った。
下痢をしながらも尊師は言われた。
「わたくしはクシナーラーの都市へ行こう」と。
(中村 元訳 ブッダ最後の旅 ー大パリニッパーナ経ー、岩波文庫)

仏陀は、ヒラニャヴァティー河を渡って、クシナーラーのウパヴァッタナというサーラ林に着き、入滅する。
7日経って、遺骸は火葬に付され、遺骨は釈迦族等八つの部族に分配され、八つの舎利塔と瓶塔と灰塔の計10塔が各地に建立された。

1898年に英国によって仏舎利が発掘され、骨壷の古代文字の解読によって、大パリニッパーナ経の記述が事実であると確認された。遺骨は1899年に英国からシャム国(現在のタイ)に譲渡され、1900年にシャム国ラマ5世から日本国民に贈られた。1904年、仏舎利を納めるために、名古屋市千種区に覚王山日泰寺が創建された。

「ふ~ん、しかし、インド人のお釈迦様でも食中毒になってしまうんだから、我々日本人なんかイチコロだよね」
「ええ、ちなみに、その時のメニューは、揚げ春巻とスクランブルエッグとソーセージだったと聞いております」
(これは、朝食ビュッフェの相手のお皿の料理である)

(補足:仏陀が食べた料理は、中村訳では、菌(きのこ)となっているが、きのこ料理、豚肉料理、料理名はスーカラ・マッダヴァである等の説がある)

0 件のコメント:

コメントを投稿