2011年7月3日日曜日

不思議な事:「何故、女性はバイクの横乗りが得意なのか?」

最近は、道路交通法が厳しくなって見なくなったが、以前は自転車やバイクの2人乗りが結構見られた。女性はスカートのため横乗りをする人が多かった。今でも東南アジア等ではよく見られる。東南アジアではバイクのタクシーがあり、スカートの女性は当然のように横乗りで乗っている。(但し、ネットで見たのだが、タイでは、スカートの問題もあるが、普通に股がって乗って胸が前の人に触れるのを嫌うという別の理由があり、股がって乗っている場合は、夫婦か恋人であるらしい)
"How to ride a motorbike sidesaddle: Every Asian girl can do this"
( http://www.examiner.com/asia-travel-in-national/how-to-ride-a-motorbike-sidesaddle-every-asian-girl-can-do-this )

実は調べてみると、女性の横乗りはバイクや自転車だけでなく、乗馬にも及んでおり、現在の乗馬競技には sidesaddle riding という種目がある。また、その起源は中世にまで遡ることができる。



私は運動神経が悪いせいか、自転車やバイクの横乗りは、とても怖くてできないので、以前から何故女性は平気なのか不思議に思っていた。

不思議に思っているが、この理由は未だに不明である。どなたかご存知の方がいたら教えてほしい。自分で少し考えてみたのが以下のような物である。

最初に考えたのは、社会的脅迫観念とも言うべき物で、女性は「女の子は、大きくなったら、男の子のバイクに横乗りで乗せてもらわなくっちゃいけないんだわ」と考えている。

また、進化論的に考えると、『横乗り苦手』遺伝子を持った女性は、みんな自転車あるいはオートバイから落ちて死んでしまい、結果的に『横乗り得意』遺伝子だけが生き残ったとなる。
しかし、自転車の発明が1817年だから、時間的に進化論的に考えるのは無理がある。


いずれにしても、これは私にとって不思議のままである。



2011年7月1日金曜日

不思議な事: 「何故、中国のレストランはあんなに大きいのか?」

2000年頃から市場開拓のため、中国に行く事が多かった。
中国に行かれた方は気づかれたと思うが、一般に中国のレストランは非常に大きな物が多い。4~5階建で、多くの個室があると共に、数百人から二千人程度が一度に入れる大食堂まである。しかも、これは北京や上海に限らず、地方都市に行っても同じように大きなレストランがある。

このような大きなレストランは日本には無いし、欧米にも無いと思う。 日本では昔デパートの食堂が大きかったが、現在は小さな専門店の集合体になってしまった。現在大きいのは大企業の社員食堂だけであろう。それも中国の大レストランよりはかなり小さい。

この理由を人に聞くと、多くの人が中国は人口が多いからだと答える。中国人も同様に答える。一度、杭州で UTstarcom の社長と会食した際に、社長に聞くと、それは中国は人口が多いからだと言う。
しかし、問題は人口ではなく、人口密度であろう。東京よりも人口の小さな中国の都市にいってもやはり大きなレストランがある。

これについて理由を明らかにした記述を私は知らないのだが、私は、毛沢東の人民公社および人民食堂がその背景だと思う。

現代中国の歴史の中で、毛沢東は、1958年の第2次5カ年計画で、15年で経済的にイギリスを追い越すという目標を設定して、いわゆる「大躍進」と呼ばれる種々の政策を実行した。この中で、人民公社がつくられ、農村部における生産組織と行政組織が合体した地区組織の基礎単位であった。また、都市部でも工場等の職場が単位よよばれ、生産、教育、生活等が単位毎に共同して営まれた。但し、都市部の単位は抗日戦争に置ける組織を引き継いでいる。

人民公社では、上記の大躍進政策に多くの労働者が駆り出されたので、女性が農作業を行う必要があり、家事労働力が不足したため、人民公社に託児所や学校、食堂を設置するところが増えた。これは都市部の単位に置いても同様である。

この結果、中国では大規模な食堂が増え、それが伝統となって現在に至っていると考えられる。
人民公社ができてから既に50年以上がたっており、現在の中国人も大きな食堂が当たりまえのものになって、不思議とは感じていないのであろう。

2011年6月27日月曜日

不思議な事:「何故すべての遺跡は埋もれているのか?」

もうかなり以前から不思議に思っていたのだが、大体いつもアルコールが入った場面で議論しているので、全くまともな答えが出ずにいた。以前、NHKに「日本人の質問」というクイズ番組があったが、あれに出したら?と言う人がいたが、出す前に番組が終わってしまった。

不思議な事:「何故、全ての遺跡は埋もれているのか?」
険しい山の頂上にあるマチュピチュ等、埋もれようのない極一部の例外を除いて、ほとんど全ての遺跡は埋もれている。そもそも「遺跡を発掘する=掘る」というではないか!

この不思議の厄介な点は、これを聞いて不思議だと思わない、または不思議だと思うまでに多少時間がかかる人が結構いることだ。
一般に人間が家や都市を建てる場合、水はけの良い小高いところを選んで建てるのが普通であるのに、何故、それが地下何メートルもの深いところに埋まってしまうのか? 不思議だと思いませんか?

私がその理由として考えるのは、直接の理由としては、家や建物を埋めてしまうことである。火事で焼失したり、地震で倒壊したりした際に、新たに建物を建てる際に、以前の建物の上に多少整地してそのまま建てることが、遺跡が埋もれる理由である。

しかし、何故そうなるかというと、昔は、現代の重機やトラックのような強力な建設機械や運搬手段がなかったことが、遺跡が埋もれる最大の理由だと思っている。建設機械や運搬機械がないため、人はがれきを取り除いて遠くに捨てることが難しいので、勢い、その上に重ねて新しい建物を造ることになる。
これが正しいと思われる証拠として、京都や江戸時代の遺跡が地下1mあるいは数m の深いところにあるのに対して、平城京のように100年続かなかった都の遺跡は、数10cm 程度の浅いところにある。

この現代の建設機械、運搬手段が無いことが影響している例は、これ以外にもあって、その1つがオランダのアムステルダムである。オランダには、世界は神が造り賜うたが、オランダだけは人間が造った、という言葉があるように、オランダは昔から埋め立てによって国土を増やしてきたことは誰もが知っている。このとき、現代のように海を埋め立てて国土を拡大した思うのは間違いである。

以下は、アムステルダムの歴史博物館で見た事なのだが、アムステルダムは、昔は海ではなくて、海に近い湿地帯であった。そこが交易の中心となって人が集まってきた時に、人は湿地に溝を掘って、その堀った土で、土地のかさ上げをし、また溝は排水溝となった。この排水溝が現在の運河である。だから、アムステルダムの旧市街を見ると、運河が細長いバウムクーヘンのように同心円状に何本もある。これは街の発展に応じて、溝すなわち運河が掘られたことを示している。

2011年6月26日日曜日

京都初夏

6月、京都を訪問。
昨年の夏の訪問時は、仕事が終わった後、鴨川沿いの川床料理の店で鱧を食べ、
ホテル藤田に泊まったが、鴨川をはさんで東山に満月が上ったのを覚えている。

今年は、ホテル藤田が店仕舞してしまったので、ほぼ定宿にしている蹴上の
都ホテルに泊まる。昨夜から雨が降り出し、今朝は東山、北山に雲が流れている。

いつも思うのだが、京都の雨は単に曇って雨が降るのではなく、京都の山と市街地が接触した地形に、白い雲が背景の黒く見える山の間を舞うように流れる。

  雨雲に 現れにけり 夏比叡 

2011年6月25日土曜日

想い出のコンピュータ: Univac 1108/1106

新入社員の頃、職場に配属されて暫くたった時、米国出張から帰ってきた上司が、私の机に IFTRAN というタイトルの資料を置いて、これを作れという。当時はソフトウェア工学が盛んになりだした頃で、ダイクストラが提唱した Strcutured Programmingをサポートする if -then-else や、case, begin-end, while  等の制御構文をFortranに導入したのが、米国のどこかの会社が開発したIFTRANであった。私の周りには言語をやっている人は誰もいないので、独学でコンパイラについて勉強し、コンパイラ部門にも聞きながら開発を始めた。

当初使っていた大型機OKITAC8000 は次世代ミニコンのクロス開発マシンとして使われることになり、仕方なく計算センターのUNIVAC 1106を使い始めた。UNIVAC1106は、IBMと並んで古いコンピュータメーカSperry Rand 社が開発したUniva 1100 シリーズの2番目のシリーズの1機種であり、それまでのUnivac 1101~1104とは異なり、36bitワードアーキテクチャを採用したトランジスタ化されたコンピュータである。1107, 1108,1106,1110が開発され、その後3番目の1100/220シリーズに移行する。特にUNIVC 1108は名機との評判が高かった。OS EXEC 8と呼ばれた。

IBM System/360との比較で言えば、OS/360がバッチを中心とするシステムであり、JCLは必要とする資源を前もって宣言する必要があった。今はメインフレームを使う人しか使わないけど、ファイルのことをDataset と呼び、このDatasetは構造化されており、JCLでは長々と規定する必要がある。これに対して、EXEC8 のコマンドは基本的に1行であり、OS/360と比べると非常にすっきりしていた。IBMではJCLをカードリーダから読み込ませるのが普通であったのに対して、EXEC8では CRT端末から会話的にコマンドを入力できた。その他にも、当時としては珍しくマルチプロセッサシステム構築が可能である、RJE(Remote Job Entry)が可能等の先進的な機能を持っていた。

IFTRANからFORTRANへのトランスレータは割合簡単に作れたのだが、問題が発生した。
EXEC8では、アプリケーションプログラムの出力データを、そのままではコンパイラ等のシステムプログラムの入力とすることはできず、OSの定めるシステムプログラム間の共通データフォーマットであるSDF(System Data Format)に変換しなければならない。
このデータ変換を行うためには、OSの機能を呼び出す必要があるのだが、そのAPIはアセンブラでしか使えない。当時データセンタはCOBOLFORTRANしか許可していないため、データセンタにアセンブラ使用の許可を求めると、原則駄目と言われるが、粘って何度も通うと今度は工数がないという。(工数って、作業時間のことですか? でも、貴方はいつも暇そうにしていますよね、と思いつつも)何度も頭を下げて許可をとった。

これで, IFTRAN の実行ができるようになり、テストや評価を行った。UNIVAC FOTRANの最適化レベルを上げて、コンパイラの出力するアセンブラソースを見ると、FORTRANコンパイラが非常な最適化を行っている事がわかり、大変参考になった。

使っていくうちに このマシンは FORTRANマシンなんだと気付いた。
  • Univac 1100シリーズは、1ワード 36bit のワードアドレスマシンであるが、当時は7bit ASCII IBM 8bit EBCDICが普及する前の 6bit FDコードを採用していたのだが、FORTRAN の変数名6文字が調度1ワードに収まる。
  • 127本と非常に多数のレジスタを持っており、計算の多くの処理を高速なレジスタ上で実行できる。レジスタは Aレジスタ、Xレジスタ、Rレジスタの3種(+少数の特殊なレジスタ)からなり、Aレジスタは演算に、XレジスタはIndex レジスタとして配列の参照に、そしてRレジスタはDOループの制御に使われる。Rレジスタは1ワードを2つに分割して、DO文の制御変数の最終値と刻み幅に使われる。このようにFortanの科学計算で最も良く使われる配列データに対する繰り返し演算をハード面で強くサポートしている。
  • 負の数の表現には、1's complementを採用。1's complemnetにはゼロの表現が2つあるのが欠点で、現在 2's complementが主流になっているが、演算回路が簡単で高速だ。

勿論、36bitワード等は Univac固有の機能ではなく、IBMSystem360でアーキテクチャを 32bit 語に統一するまでは、IBM 7090等でも採用されていたアーキテクチャである。尚、IBM 7090シリーズは負数の表現には上記のいずれとも異なる Sign+Magnitude方式を採用していた。

このように、メインフレームの頃のコンピュータは、コンピュータ発明の原動力となった技術計算を強く反映したアーキテクチャになっていた。これに対して、現在の Intel x86とC は、言ってみれば文字列の処理に注力したアーキテクチャと言えるであろう。

Univac はその後、バロースと合併しUnisysとなった。メインフレームから撤退し、現在はIntel CPUベースのLinuxやWindowsサーバを製品として持っているが、サービスやコンサルティング事業に軸足を移している。

2011年6月24日金曜日

中高年にパソコンを教える

最近、姉にパソコンを教えている。
姉は、専業主婦で会社勤務の経験もなく、また、技術系には関心がないので、パソコンには全く触った事がない。
暫く前から老化予防にも良いからと進めているのだが、「最近はパソコンは、読み書き算盤である」と言ったのが効いたようだ。また、趣味でやっている短歌にも役に立つと思ったらしい。

同居している娘夫婦は勿論パソコンを使っているのだが、面倒なのか、人に教えるほど詳しくないのか、教えてくれないらしい。少し教えて理解しないと、それはやる気がないからだと、精神論で攻められるらしい。
昔の帝国陸軍風ではなく、科学的に教えなければならない。

という訳で、5月の連休から私が教えることになった。
教えるにあたって、娘夫婦のパソコンと同じにしておいた方が何かと便利であろうと「Windowsか? Mac か?」と聞くと、「リンゴがついている」と答えるので、MacBookProを買って持っていく。

ついでに、Mac の入門書も用意してみたのだが、ぺらぺらメクッてみると、とても初心者が理解できるものではない。書店でコンピュータの入門書をいくつも見てみたが、本当の初心者が読んでわかるとは思われないので、自分でパソコン入門という資料を作成し、ある程度自習できるようにする。

パソコンを教えるにあたっての方針は;
  • こまかい事をバラバラに一度に沢山教えない
  • 動作モデル、原理、背景を理解し、自分の中にパソコンがどうして動いているかのモデルができて、類推できるようにする。従って、インターネット接続もきちんと、PCから無線LAN,NCU,局舎、電話回線とインターネットの分離、インターネット、ISP, SPを説明する。また、最初から、プログラム、ウィンドウ、入出力の概念を説明する
  • 現在パソコンを使っている人も慣れるまでには何年もかかっている。また、当面自分が使う機能だけ知ればよく、全部わかっている人はいない、と安心させる
  • 当面の目標は
   (1) PCの起動、終了、基本的な操作ができるようにする
   (2) キーボード操作とかな漢字変換の習熟により文字入力ができるようにする
   (3) インターネット上の情報検索
   (4) 電子メール
   (5) 通販
   (6) 文書作成(Word)


これまでに3回教えたのだが、一応 Word で文書入力の練習までできているようだ。双方が実家に集まって教えるのだが、姉は MacBookPro を風呂敷に包んで持ってくる。風呂敷で包んだパソコンを見るのは初めてだ。

やっていると問題がいくつも発生する。
・トラックパッドよりは、マウスの方が操作しやすいだろうと、MagicMouseを用意したのだが、 MagicMouse が敏感すぎて、予測しない動きが発生する。自分も苦労したので、調べてみると MagicPrefs というソフトをインストールするとマウスの感度を制御できる。その後人から聞いたのだが、MagicMouse よりももっと使いやすいマウスがあるらしい。
・孫がパソコンの環境を壊す
最近は小学校でもパソコンを教えているようであるが、子供はさすがに学習が早くどんどん使うようだ。家のMacは両親がきちんと管理しているので、おばあちゃんのMacは子供の標的となり、ゲーム等好きなように使っているようだ。
しかし、環境を壊したりするので、その度に私に電話がくる。システム関係のトラブルを電話で対応するのは大変である。

いろいろトラブルもあるが想像以上に順調に進んでいる。世の中のパソコン入門も少し見直した方が良いと思う。

お釈迦様の死因

以下は、インド旅行で泊まったあまり上等でないホテルのレストランの朝食での話である。

「お釈迦様の死因って、ご存知ですか?」
「さあ、でも確か80歳で死んだんだから、老衰じゃないの?」
「いいえ、実は食中毒だったんですよ」

仏陀の死は、当時の仏陀の信徒にとって、また後代の仏教徒にとっても忘れる事のできない大きな事件であり、入滅に至る最後の1年の言動は他に比較して詳しく経典『大パリニッパーナ経』(大般涅槃経) に伝えられている。
当時マガダ国を中心として布教を行っていた仏陀は、マガダ国の都ラージャガハから終焉の地クシナーラーに至る最後の長い布教の旅に出る。その途中、マッラ国のパーヴァーで鍛冶工のチュンダの食事の供養を受け、食中毒となった。

このように、わたくしは聞いた。
ー鍛冶工であるチェンダのささげた食物を食して、
しっかりと気をつけている人は、ついに死に至る激しい病いに罹られた。
(きのこ)を食べられたので、師に激しい病いが起った。
下痢をしながらも尊師は言われた。
「わたくしはクシナーラーの都市へ行こう」と。
(中村 元訳 ブッダ最後の旅 ー大パリニッパーナ経ー、岩波文庫)

仏陀は、ヒラニャヴァティー河を渡って、クシナーラーのウパヴァッタナというサーラ林に着き、入滅する。
7日経って、遺骸は火葬に付され、遺骨は釈迦族等八つの部族に分配され、八つの舎利塔と瓶塔と灰塔の計10塔が各地に建立された。

1898年に英国によって仏舎利が発掘され、骨壷の古代文字の解読によって、大パリニッパーナ経の記述が事実であると確認された。遺骨は1899年に英国からシャム国(現在のタイ)に譲渡され、1900年にシャム国ラマ5世から日本国民に贈られた。1904年、仏舎利を納めるために、名古屋市千種区に覚王山日泰寺が創建された。

「ふ~ん、しかし、インド人のお釈迦様でも食中毒になってしまうんだから、我々日本人なんかイチコロだよね」
「ええ、ちなみに、その時のメニューは、揚げ春巻とスクランブルエッグとソーセージだったと聞いております」
(これは、朝食ビュッフェの相手のお皿の料理である)

(補足:仏陀が食べた料理は、中村訳では、菌(きのこ)となっているが、きのこ料理、豚肉料理、料理名はスーカラ・マッダヴァである等の説がある)